一物理学者が観た哲学 言葉いつ多義的で曖昧でありたか人間

「多義的で曖昧」なのは定義の問題でしょうし「人間の声帯が生み出した自然現象」なら声でしょう。言葉(言語情報)信じれないのでば、信じればいいのか よく哲学な学問ていて思うの、 言葉いつ多義的で曖昧であり、たか人間の声帯生み出た自然現象、こんなモノ絶対信憑性あるモノ言えるのか 疑問思い で、言葉の信憑性疑ってまう、か信じれなくなります どうすればいいでょうか 言葉信憑性か 言葉信憑性持たす必要でょうか 一物理学者が観た哲学。学問領域からかなり離れた領域を専門とする学者との討論は。真剣なものであり
。刺激 的なものこんなこともわからずにいたのか?と驚かれる現象は人間
によって観察可能なことがらであるが。たいていの物理学者は少なく とも古典

「多義的で曖昧」なのは定義の問題でしょうし「人間の声帯が生み出した自然現象」なら声でしょう。声だけでは言葉が持つ意味までは含まれないんじゃないでしょうか。だとすれば質問者さんの疑いに根拠はなくなるかと思うのですが。言葉は記号と意味との2つの要素で構成されています。それが記号である以上、それを意味するものを設定する必要があり、その設定を人々は共有しているというだけだと思います。それでも人が言葉を信じるのは、その言葉が使われている共同体に対する信頼に基づいているのではないかと思います。要するに誰の言葉かが言葉の信憑性には結構重要ってことです。オオカミ少年として名高い少年が言う「狼が出た」という言葉と、これまで嘘をついたことがない少年が言う「狼が出た」という言葉では信憑性が違いますよね。その上、そもそもその言葉が意味するところのものを知らなければ、言葉自体を理解することができません。知らない外国語だと信じるも何もないでしょう。それ以前の問題だと思います。難解な言葉というのは外国語と同様です。「言葉に信憑性を持たすには何が必要」かといえば、まずはその設定を信じた上でコミュニケーションが取れるか試してみたらいいかと。問題なく使えるなら信じていいでしょうし、信憑性は出てくるでしょう。もし使えなければ疑えばいいことです。「よく哲学などの学問をしていて思う」というのであれば、方法的懐疑はご存知でしょう。疑うのは結果ではなく、あくまで方法です。結論として信じてもいいわけですからね。信憑性が持てるまで疑えばいいと思います。疑う根拠がなくなった時、信じるしかなくなりますよね。言葉?言語 書き言葉と話し言葉がある言葉は曖昧なもん絶対はない信憑性 曖昧だけど、それで何かを考えたり伝えたりをしてきた信じる信じない は、自由音声つき、さらには表情つき だと言外のところまで情報はひろがるじぶんの言葉の信憑性はじぶんが決めるんじゃなくて、受け取り手が勝手に決める信憑性はじぶんがつけるんじゃなくて、他人がつける言外情報込みで話してても、伝わることもあれば伝わらないこともある誰から受け取る何を信じたいのか、誰に伝わる何を信じてほしいのか

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